<聴き比べ> マーラー:交響曲第7番 その1

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 ・マイケル・ティルソン・トーマス(指揮)/ サンフランシスコ交響楽団

 1998年。各パートがしっかり聞き取れる、純音楽的なアプローチのマーラー。各楽章の調製が異なっていたり、コラージュ的に異質な音楽が次々とカットアップされたり、ギターやマンドリンカウベルみたいな特殊楽器使ったりとカオス極まりないこの作品の、ともすれば欠点として語られがちなその歪さを、それはそれとしてまるごと提示する思い切りの良さがこの演奏の魅力。期せずして、マーラーのユーモラスな側面が強調されることになっている。 特に最終楽章に入った瞬間、それまでの楽章の曲想と異質過ぎる開始に驚かされるのだが、その異物感を抑えて馴染ませようとしない清々しさには拍手を贈りたい。冒頭のティンパニが刻むリズムやホルンのトリルの底抜けにおバカな感じは痛快極まりない。その後様々な曲想がカットアップされるのだが、メリハリが効いているため、聴き比べたCDの中で一番驚かされたり、笑わされたりすることが多かった。「勝利」でも「歓喜」でもない、終始どんちゃん騒ぎな最終楽章の毒気を表現し切った演奏だと思う。 

最終楽章の話ばかりをしてしまったが勿論それまでの楽章での「前振り」は綿密で手は一切抜かれていない。特に一楽章ではスコアには書かれていないゲネラルパウゼも出てきてケレン味十分。技術的にも体力的にも超難曲だが軽々と弾きこなし吹きこなすオーケストラも素晴らしい。特に金管楽器。柔らかい音からパワフルな音まで、実に表情豊か。

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 ・レナード・バーンスタイン(指揮)/ ニューヨーク・フィルハーモニック  

1965年。若々しく清々しい。難曲に体当たりで正攻法で臨もうとする心意気が素晴らしい。歌わせるところは力の限り歌い、クライマックスは正に一丸となって荒れ狂う。各楽章とも、最初から最後まで熱気が溢れているため、この交響曲の歪さがあまり気にならない。一楽章はドロドロした不穏な始まりから、徐々に形が定まってくるスリルが良い。お互いに抑制しつつ、爆発を待っている。ハープが左右でポロロンと鳴る所辺りから、演奏にスイッチが入った感じがした。たっぷりと旋律が歌われ、徐々に内部の熱が高まっていく。暖まり切った後は怒涛の展開だ。ラストの吹っ切れた加速も素晴らしい。四楽章は元気が溢れ過ぎててタメが効いていないのと、室内楽的なアンサンブルの妙が出ていないのはイマイチ。マンドリン奏者の技術にも疑問符がつく。終楽章は大騒ぎでやり切った感が素晴らしい。オケの金管楽器の馬力には感嘆するし、景気良くゴロンゴロン鳴らされる鐘やカウベルも痛快だ。この時代はまだ、マーラーのマイナーな大曲をやる事自体に意義があった。その気負いが良い方に出ている。

 

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ジュゼッペ・シノーポリ(指揮)/ フィルハーモニア管弦楽団

1992年。魅力あふるる怪演である。熱い使命感を胸にエヴァンジェリストたるべく苦悩する芸術家としてのマーラー像を遍く世界に知らしめたバーンスタインとも、高い技術を持った作曲家マーラーの音世界をエンターテインメント性溢れる演奏で繰り広げ、楽曲の魅力を十全に引き出したマイケル・ティルソン・トーマスとも違うアプローチがここにはある。シノーポリのアプローチは、一言で言えば「欲張り過ぎ」である。マーラーは色々と過剰な人である。使用楽器は多過ぎ、アイデアも詰め込み過ぎ、演奏者への指示も多過ぎ…スコアの時点で既に構成要素は過剰である。更にそこに「マーラー伝説」とでも言うべく、マーラー本人の様々なエピソードが加わってくる。アルマ・マーラーや弟子たちの証言、ゴシップやスキャンダルやトラブル、政治的歴史的民族的な背景…。シノーポリは深読みに深読みを重ね、マーラーの楽曲の歪さに自信の過剰な思い入れを更に掛け合わせてしまっている。困った事にシノーポリ本人のパーソナリティーも指揮者兼作曲家兼精神科医で掛け算は更に複雑になる一方である。結果的に全体的には見通しが悪く、指揮者の演出意図がよく分からない部分が出てきて、これまで違ったマーラー演奏に親しんできた耳はどうにも引っかかる箇所が出てきてしまう。そして残響の多い録音が違和感に輪をかける。心地良いサウンドで個人的には好みであるが、逆に言えば個々の楽器がはっきり聞こえてこない隔靴掻痒な感じがどうしても出てくる。

ではシノーポリマーラーは駄目かと言われれば、そんな事は無いと思う。意味不明なまでに漲るやる気と思い入れは本物で、心地よい録音も相まって気がつけば惹かれている。フィルハーモニア管弦楽団の素直で良い意味で色の無い、それでいて技巧の確かな演奏も良い方向に作用している。シノーポリは四楽章を思いっきり遅くして歌わせている。緩徐楽章的解釈である。吉と出ていると思う。この楽章の室内楽的な響きや実験的なオーケストレーションを強調することになり、他では味わえないような音響世界を作り出している。他の演奏だと、完全にかき消されて何の為に存在しているのかわからないようなギターを、残響たっぷり隙間たっぷりの中で爪弾かせることでギターの和音の存在意義を強調している。木管楽器マンドリンのユニゾンは、どこかシンセサイザーやオルガンの音作りを思わせる。アタック部分をマンドリンで強調しつつ、サスティンは木管楽器。チェロ独奏とホルンのユニゾンも同様だ。残響の多い録音がこれらのサウンドをまろやかに混ぜ合わせている。ウェーベルン的な点描技法的な効果を感じさせるのも面白い。この新ウィーン学派的なソノリティの強調は、作曲もしていたシノーポリならではのアプローチではないだろうか。

     最終楽章は猛烈なスピードで突き進むため、流石のオーケストラも付いて行くのに必死な部分もあるが、柔らかくよく伸びるホルンを筆頭に巧みな演奏を楽しむ事が出来る。蛇蝎の如く嫌われる事の多いシノーポリマーラー演奏だが、今一度視点を変えて向き合えば新しい発見があるのではないか。

 

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・キリル・コンドラシン(指揮) / レニングラードフィルハーモニー管弦楽団

1975年。これは凄い。好きモノにはたまらないあの時代のソ連の音である。ムラヴィンスキーが鍛えに鍛えた切れ味鋭いレニングラードフィル。どんなにテンポが速くともアンサンブルは一糸乱れず、管楽器は息継ぎなど存在し無いかのように吹きまくる。そんなソ連が産んだ無敵最強音楽兵器をコンドラシンが煽りに煽りまくるから面白くない訳がない。当然と言うべきか、マーラーに付いて回る余計なバイアスなど何処吹く風。死と官能の匂いに塗れた世紀末の古都ウィーンの風情など最初の一音で全てが吹っ飛んでしまう。特にこの曲の最終楽章は破茶滅茶な大騒ぎなのでこのコンビの魅力がしっかりと出せていると思う。ワルターウィーンフィルを振ったマーラーを聴いて往年の古都の薫りを懐かしむかのように、レニングラード・フィルのマーラーを聴いて往年のソ連の風情を楽しむのもまた一興ではないか。あの時代ソ連は輝いていた。映画の中ではいつも悪役だったけど、時には主人公よりも色気があって無敵でクレイジーだった。結局ソ連なんて国もレニングラードなんて都市もこの地球上から消え失せてしまって、ついでにレニングラードフィルも改名してしまい、切れ味鋭い鉄壁のアンサンブルも一緒に歴史の波の彼方に消えて言ってしまったが。でも、もしかしたら、モンサント社製遺伝子組み換え食品を食べながら、ふとルイセンコ農法とかコルホーズとか思い出すことだって一生に一度くらいあるかもしれない、多分。そんな時はこの演奏を聴いてみてほしい。歴史の必然と偶然が作りあげた、あの時あの場所でしかありえない腰抜かすレベルの怪演が待っているから。